米沢藩の忠臣蔵23

雑な史実説明
吉良邸討ち入りで応戦して重傷を負っていた上杉綱憲の次男、義周は
赤穂浪士が切腹した日、当日の対応に際する「仕方不届」を理由に
高島藩預け処分が知らされ吉良家も改易となった。
綱憲とその息子、吉憲は世間の空気を読んで「遠慮」を申し出て
しばらく謹慎生活を送った。

遠慮(えんりょ)は、江戸時代の刑罰の一つで、武士僧侶などに科せられた。基本的に、 籠居(ろうきょ)を命じたもの。夜間のひそかな外出は黙認された。他者の出入りを制限しない点で、逼塞などと異なる。自主的に行う意味合いが強く、公に申し付けられる場合は「慎み」となる。
(Wikipediaより)

義周はもともと病弱だったこともあり、預かり先で3年後に21歳で病死。
忠臣蔵の物語で一番不憫な人物だと思う…